大野右仲~大野右仲~(おおのすけなか)天保7年12月8日(1837年1月14日)~明治44年(1911年6月11日) 唐津藩士、箱館新選組隊士。頭取。後、陸軍奉行添役。 唐津藩士大野勘助の長男に生まれ、安政3年(1856年)、21歳より昌平坂学問所で学ぶ。 戊辰戦争が勃発すると、慶応4年4月7日、藩主小笠原長行に従って会津へ入る。 4月29日、療養中の土方歳三を訪ねた後、閏4月26日、越後長岡へ行き河井継之助に会う。 その後、会津・越後・白石・仙台・福島と移動。 9月中旬、仙台で同志23名と新選組に入隊。 榎本武揚艦隊と合流して蝦夷地へ渡った。 明治元年10月24日の七重村の戦い(大鳥隊)に参戦し、新選組頭取から土方直属の陸軍奉行添役となり土方戦死までその補佐役を務める。 明治2年4月の二股口防衛戦では、土方の不在中は指揮して戦った。 5月11日、函館総攻撃前夜には榎本ら幹部と別杯を交わし、開戦後弁天台場より援軍を求めに行く途中の千代ヶ岡陣屋で土方と合流。 一本木関門で兵をまとめて戦うも、土方の戦死により敗走。 土方さんの最期の声を聞いた人とされる。 弁天台場降伏の使者として台場に行き新選組にその戦死を伝えたとされる。 その後弘前の薬王院に収容されて東京に送られ旧藩に引き渡されて3年1月に放免される。 翌年より明治政府に出仕して明治4年久美浜県参事、豊岡県参事。その他長野、秋田、青森などの警部長を歴任して退官。二十六年より東京に住む。 箱館戦争の記録(『函館戦記』)を書き残す。 明治44年、死去。享年76。 著書『函館戦記』によれば、大野は明治2年(1869年)5月11日、千代ヶ岡陣屋で箱館市中に向かう土方歳三を目撃して、共に一本木関門へ向かった。 箱館港では旧幕府軍蟠竜丸が新政府軍朝陽丸を轟沈せしめたため、土方に命じられて弁天台場方面へ進撃。 「この機失すべからず。士官隊に令して速進せん。しかれども敗兵俄に用い難し。吾れこの柵に在りて、退く者は斬らん。子(大野)は率いて戦え。」 (この機を逃すな。士官隊に命令して進め。負けている兵は使いにくい。俺はこの柵にいて逃げる奴を斬る。大野は兵を率いて戦え) 敗走する兵が続出していたが、大野は「奉行(土方歳三)が、敗走兵を必ず関門で食い止めてくれる」と信じていたと言う。 しかし、敗走兵の留まる様子が無いことに驚いて千代ヶ岡陣屋へ引き返したところ、同役の大島寅雄・安富才助らから土方の戦死を知らされた。 その夜、大野は五稜郭の堤の上で土方を偲び弁天台場の同志を想い涙する。 「月は欠けて天にあり、広野渺漫(びょうまん)たり。砲台は湾を隔てて雲煙の中に髣髴(ほうふつ)たり。ひとり兄事する所の奉行(土方さんのこと)の死を歎き、同胞のごとく交わりたる者は、皆彼にありて(弁天台場)、我のみ敵陣のさえぎる所となりて到るを得ず。涙を垂れて楚の項羽の『時利あらず、騅行かず』の句を吟ず」 くぅう~泣けるなぁ(T_T) 大野はその後、弁天台場で新選組隊士らと共に降伏したとされる お墓は谷中天王寺墓地。なおお墓の記録には「おおのありなか」とある ここもわかりにくい場所にあり一人では探し出せず。 ようやく苦労の末たどり着く。 一族のお墓なので結構立派だが参る人もいないのか小奇麗な割りに寂しい感じがする。 ジャンル別一覧
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